研究者って自称ギタリストと何が違うの?

クソ田舎助教から、政令指定都市に逃亡しました

研究へのモチベーションは何?

このエントリーをはてなブックマークに追加

最近、院生のころの自分はギラついていたなと思う。

あのころは、研究というものが少しわかってきた面白さ、結果が少しずつ出てくる面白さ、学問の未来のために貢献できている興奮、ボスの世界観へ貢献していく達成感、自分の将来を自分で切り開いていってる充実感、あとは人間的に小さいけども、同級生よりはやく論文を出したい、学振とりたい、とかそういうのもモチベーションだったな。

 

結果的に、ギラギラ研究をしていた。

あれは楽しかった。

 

転機はきっと、論文を書いて学振をとって留学したあたりからかな。

人生が一気に広がった。

それまでは、特に変な遊びもしなかったから、価値観がせまーかったと思う。

外人の考え、外人の生活スタイル、毎年 Nature とか出してしまう "本物の" 研究室。

いろいろ見てしまったんだよな。

それから、いろいろな本に出会った。

留学した日本語欠乏症の人がよくはまる、ひたすら読書したくなる日々。

 

それに加えて、帰国してから実験がうまくいかなくて、どうやら仮説が違ってて行き詰ったんだよな。

それでも、どうにか落としどころを見つけるためにひたすら仮説を考え、ちょろちょろと検証し落ち込む日々も、まあいま思うと無駄でなかった気がするが。

 

それでまあ、論文のために、業績のために、人に見せるために研究するのってバカなんだなと気づいた。

そう思ってしまうと、いろいろ考え込んでしまった。

それから、あんまりギラギラしなくなっていったんだと思う。

 

 

 

ポスドクになってからはひどかったな。

学問的に正しいことがまるで通用しないボスのもとに行ってしまった。

まあ、院生時代のボスと懇意にしている先生の、紹介してくれた先生のラボだったわけだが。

 

俺「こうしたほうがいいと思ったのでこうやりました」

ボス「そんなことは聞いてない、なぜ俺のいうことを聞かないんだ」

 

俺「イントロのこの箇所は必要です」

ボス「俺がいらないと言ったら消すんだ(ディスカッションまだ読んでないけど)」

 

みたいな先生でした。

 

俺「科研費とりました」

ボス「まず俺の言ったテーマをやれ」

俺「先生のテーマ、すでに論文出てますよ」

ボス「(ぐぬぬ…)それでもやれ」

 

だったからね。

あれでなんかくじけた。

 

 

で、うまく脱出できて今はラボを持てたわけですが。

せっかく、これからなんでもできるぜ、うおおぉおーー!!ってとこなんだが。

これから、何のために研究をしていくんだろう? って、ちょっと考えてしまいます。

ちょうど建物の改装で実験できてないからなおさら。

 

 

知りたいことがあるから研究する、というのが一番正しい姿勢だってわかってますが。

人生をかけて解き明かしたいテーマ、みたいなのが、まだ自分の人生のなかで見つかってないのです。

偉大な先生ほど、驚くほど純粋に夢を語る傾向があると思いますが、あの姿勢が俺にはまだないなー、なんて悩んだり。

 

「自分のわかる範囲で」「設備的に可能で」「それなりに面白いと思えて」「論文になること」を探して、こつこつやっていく、って、まあ最初はそんなのでしょうがないのかもしれないけど、なんか間違えている気がして鬱々。

 

お金と設備が無尽蔵にあれば、やってみたいことも無くはないのだけども。

現実的にそんな恵まれることはないし、そんな環境を作ることは一生できないと思う。

だからこう、できることをやるしかないわけだよなー。

 

なんかこう、自分のキャリアのために、とか、都会にもどれるように、とか、故郷に帰れるように、とか、よりよいポストをとるために、とか、「○○大の先生? すごいですね」と言われたいとか、同級生より良いポストに行きたいとか、○○賞をとる! とかさ。

そういうのをモチベーションにすることも、できる人もいるのだろうし、できないわけじゃないけど、それって研究者としたら不純すぎて気持ち悪いよね。

自分が情けなくなるよね。

そんなだったら研究じゃなくていいじゃないか、みたいなね。

 

世の研究者たちって、何を考えて、何をモチベーションにして、どんな夢をもって研究しているんだろう?

知りたいわ。

教えて、誰か教えて!!

 

 

しかしまあ、夢を語る偉大な先生って、無理なことも語ったりするわけでさ。

教授の妄想に准教授や助教が突っ込みをいれる図、って珍しくない気がするよね。

 

……なんだかつらつら書いててさ、ブレインストーミングといっしょで、できるとか無理とか関係なしに、夢をただ語ればいいのかな、って気もしてきた。

設備がないから、お金がないから、「できない」じゃなくて、設備がなくても、お金がなくても、なんとかして「できる」範囲のことをしていく。

つまり、できることを踏まえてテーマを決めるんじゃなくて、先にテーマを決めてからできることをする、ってこと。

それをやってるうちに、できることが増えていって、いろいろなものが好転していく、それが人生なのかなって気もする。

 

いま思い出すと、毎年 Nature 出しちゃうような留学先のボスが言ってたんだけど。

「できるとわかってることをやってもしょうがないじゃん」って。

そうなんだよな、できないからこそ、できるようにしていかなきゃいけないんだよな。

できることをテーマにしていく、なんてちゃんちゃらおかしい話だったわけだね。

 

 

環境も技術も、自分でつくるものだから。

院生やポスドクじゃなくて、もう環境も技術も作る立場だから。

環境や技術によってできる仕事を決めるのではなくて、夢が最初にあって、環境と技術が相互作用しあって進んでいく、って感じかも。

 

とにかく、アホな上司はもういないんだ。

環境は何の言い訳にもならん。

そして、このポストを与えてくれたこの学校と、公募で僕に敗れていった僕より優秀な方のためにも、人類の未来のためにも、税金を投入してくれる政府や国民のためにも、夢を常に持とう。

 

と、ちょっと自分で自分をいましめてみた。

書かないと考えがまとまらんからあかんね。