研究者って自称ギタリストと何が違うの?

クソ田舎助教から、政令指定都市に逃亡しました

信念を持って持論を発表すること

このエントリーをはてなブックマークに追加

科学者という人種は、自分の信念を売るのが仕事だと思っています。
世の中というのはおそらく、高い様々な壁に周囲を囲まれており、人はその壁の中だけで暮らしているんだと例えることができるでしょう。
壁というのは人類の知識の限界であったり、技術の限界であったり、強い思い込みであったりを指す例えです。
ちょうど世の中は、進撃の巨人のような世界です。
科学者は、この壁の形であったり、壁の向こう側の世界であったりを、「私はこうなっていると思う!」と主張し、壁を動かしたり壊したりするのが最大の存在意義だと言えるでしょう。



科学者や芸術家や何かの最先端に身を置く人、などを除くと、世界を覆う壁を感じる機会はそう多くないですし、科学者だって、毎日壁を探して生きているようなもんです。
だからこそ、科学者は日ごろから壁を意識して生活する必要があります。


しかし、このように壁の形や壁の向こう側に、思い入れや妄想を強く持ちすぎると、実験結果の解釈を見誤らせることがあります
科学に対して誠実であれば誠実であるほど、自分の望む世界が見えた時に疑い深くなる必要があります。
疑って疑って実験を重ね、疑いが晴れるまで実験を尽くして初めて、世界の壁が動くんでしょう。
これは科学者としてとても正しい姿勢で、とても重要な振る舞いです。



ただ、本当にこのような正しい姿勢のみしか、存在を許してはならないのでしょうか?



科学の作法にのっとって正しく実験をし、自分の信念を示唆する一部のデータが現れてきたとします。
ただ、それが証明されたというにはまだ少し足りません。
ここで発表しちゃうのは早計かもしれません。
このような時、本当に正しい姿勢では、まだ信念を盲信せず、疑い深くあれ、とするのが本来です。
しかし、「私はこんな信念を持っていて、このデータはこれを示唆するよ!まだ証明はできていないよ!」という発表も、世に出ることで意味をなしたり、それをヒントに研究が発展したりすることも考えられます。



嘘を発信すること、不確実なことを真実のように発信すること、ねつ造すること、これはいけません。
が、フライング気味であることを明記したうえで、あえて世に出すという方法も、時と場合によっては悪くない手、とする考え方もまた、存在しております。


「Aという説を示唆する結果1が得られている。しかし、2という結果はBという説を示唆している」となったとき、本来ならば今は何も主張すべきではありません。
が、「もし特別な信念があれば、1の結果だけを世に主張すべきだ」とする考え方の人もおります。
日本人より、海外に多いという話を聞いたことがあり、日本人は信念がないから、と揶揄されたこともあります。


これをどこまで許すかは難しいです。
やりすぎると、某S細胞のようなことにもなりかねません。
強すぎる信念、強すぎる妄想は科学にとっては猛毒です。


が、自然科学は自然哲学であり、科学者は哲学者でもあります。
実験データへの誠実性を大切にすると同時に、この世のとらえ方に対する信念というものも、同様に大切にしていく必要があるのではないでしょうか。


データとの誠実な向き合い方が科学者の生命線であると同時に、心に強く持つ信念もまた、科学者の生命線と言えるでしょう。
無邪気さ、結構大事です。
無邪気に妄想する自分と、冷静に批判する自分、両方欠いてはならない存在です。